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■児玉九郎右衛門の匠の技と情熱ここに復活

*** 錦帯橋の原寸型板 ***

■今日の人々は誰も1673年に創建された『錦帯橋』を見たことはない。今、私たちが見ることの出来る実際の『錦帯橋』は、昭和28年に再建された『錦帯橋』である。この『錦帯橋』も今年(2001)が見納めである。キジヤ台風(1950)で流された1世代前の『錦帯橋』は擬宝珠が付いた欄干の一部や組み立てられた桁の一部が保存されており、現在でも、岩国の徴古館にて見学する事が出来る。また、新しいものではあるが型板も大切に保存されている。
■『錦帯橋』の図面については、創建時のものは存在していない。しかし、1699年の図面をはじめとして今日の『錦帯橋』まで、かなりのものが残ってはいるが、十分ではない。これらを今日じっくり解読してみると、これらの図面は、様々なことを私に語りかけてくれる。一部は、先人達との声なき対話である。謎解きみたいではあるが、私なりに解明した、その中のいくつかをここで述べてみることにする。先学非才故誤りを述べるかもしれないが、続かれる研究者の方々のご教示を願う次第である。
■まず時代を昭和28年の再建当時に合わせたい。当時は、今と比べて遙かに物やお金が不足していた時代と思う。しかし、それにしては極めて短期間に再建を実現させた当時の岩国の先人に今更ながら頭が下がる。本来流されるはずがないと考えられていた『錦帯橋』が、キジヤ台風と言うまれにみる災害によって惜しくも流された事による再建であり様々な安全対策が設計に取り入れられた。しかし、翌年には、さらに大きなルース台(1951)が岩国を襲いその水かさを丹念に研究され急遽設計が変更されたと聞く。当時を知り実際に『錦帯橋』の図面を描かれた技術者の方のお話を聞いても、当時は今日のようなじっくりと『錦帯橋』の構造や美しさを愛でながら工事を進めると言うわけには行かなかったと推察できる。
■世はまさにIT革命とまで言われる時代である、IT恩恵を十二分に受け、落ち着いた中での『錦帯橋』架け替えは、『錦帯橋』の歴史始まって以来の事である。私の持論であるが、この架け替えを『錦帯橋の考察的架け替え』と表現しそれなりの成果を残したと思う。今から、また半世紀後の世界の人々へ送り届ける岩国の『錦帯橋』は、いかにして架け替えられる必要があるのか、多くの人々に関心を持っていただきたいと思う。
■私は、自分の興味の湧くいくつかの時代の『錦帯橋』の姿を仮想空間の世界に完成させている。まさにITの恩恵である。また、『錦帯橋』のいくつかの疑問や問題点については、思考実験による考察に加え、実大実験や模型実験を繰り返しながら解明している。表現を変えれば、それらは全て、『錦帯橋』の『構造』と『美』についての探求である。
 研究途上ではあるが、今回の架け替えの重要な時期すなわち、『錦帯橋』の原寸型板を製作する時期になったので、この研究の成果を『錦帯橋』架け替えの関係者にお伝えした。さすが経験豊かな関係者はすぐに御納得いただいたが、ここにそれを報告しておく。
■図面を対比させながらお話申し上げるのが最も良いことではあるが、お許しいただきたい。ただ『錦帯橋』の構造にいささかなりとも興味をお持ちの方々には、これで十分だとは思う。
1.昭和28年に再建された『錦帯橋』の原寸型板や図面は構造部分を重視したものであり、『錦帯橋』の完成時の姿を十分には反映されていなかった。
2.今回は『錦帯橋』の完成の姿を最優先とし、アーチを形成する構成要素としてカテナリー(懸垂線)を採用する。従って、手すり、敷き板、段板、鞍木のV状の下端を連ねる線等々がカテナリーによって配置される。
3.鼻梁は『錦帯橋』1スパンをカテナリー上を21等分したしかるべき位置に配置し、鎧桟は鼻梁を中心にカテナリー上をさらに半分の42等分した位置に配置する。
4.後梁は鎧桟と鎧桟の中心に突き出て通称『はと小屋』が形成される。
5.大棟木の下端を形成する曲線もカテナリーである。
6.その他ここで述べていないことはさらに研究を進めたり、従来の手法にならうことは言うまでもない。
■私は、これが実現すれば、『児玉九郎右衛門の匠の技と情熱がここに復活』と高らかに宣言できる。思い起こせば電気もコンピュータもない江戸時代にこのような高度な『錦帯橋』の『構造』と『美』を同時に獲得した匠の技の神髄は、自然に逆らわず自然に忠実な、まさに『構造』と『美』の原点にたどり着いた結果である。だからこそ、『錦帯橋』の『構造』と『美』は、今日でも非の打ち所のないものと賞せられるのだと思う。


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