名橋にそそいだ岩国の情熱

発刊によせて

古川 薫(直木賞作家)

 徳川時代、防長(周防・長門、毛利氏の藩領)にかけられた主な橋は、萩の橋本大橋・松本橋、そして岩国の錦帯橋があります。いずれも17世紀中の創建で、この三つをくらべると、橋本橋・松本橋の長さがいずれも80メートル前後であるのに対し、錦帯橋は当時200メートルのけたはずれに長い橋です。

岩国川(錦川)に最初に橋をかけたのは吉川家2代の広正ですが、数次におよぶ架橋は大水によって流されてしまいました。そこで3代の広嘉は、何とかして流れない橋をと、みずから工夫してついに成功させたのでした。中国の西湖にかかる橋を参考にしたことは有名ですが、橋の設計に領主自ら参画しているのもめずらしい例です。

 関ケ原の戦いのとき、吉川広家は豊臣方に勝ち目がないと見て、ひそかに手をまわし取引しました。戦わないことを条件に毛利氏の中国8ヵ国の領土安泰を保証するという約束は破られ、防長2州に押し込められてしまい、広家の立場は悪くなりました。

 防長の所領を配分するにあたって、直系にあたる毛利秀元には長府(5万石)、毛利就隆には徳山(4万石)を与えて、これを支藩としましたが、傍流であるという理由で岩国を藩とせず「吉川家」として遇したのです。石高は6万石でありながら、岩国の領主は大名になれなかったのです。そのうちに長府から分かれた清末が1万石で大名に列せられました。これに不満をとなえはじめたのが、2代広正のときからで、3代広嘉も強く本家の萩藩に「昇格」を願い出ましたが聞き届けられず、それが実現したのは幕府が倒れた後の明治元年(1868年)でした。

 2世紀半にわたる吉川家の大名昇格運動の中で、もっとも積極的にそれを進めた3代広嘉が、架橋に情熱をそそいだというのも何か暗示的です。大名への夢の掛橋という思いがこもって、天下に誇る名橋は完成したのです。美しい5つの弧を描く錦帯橋は、吉川家が切望する“大名への虹”だったのかもしれません。

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