■ 中華人民共和国から報道された両国の錦帯橋

錦帯橋は中日の姉妹橋

 杭州の白堤は西湖の水面に横たわっている。東の断橋から西の平湖秋月まで長さ1km、まるで一本の錦の帯が紺ぺきの水の上に浮いているようである。白堤に橋が二本かかり、一本は「断橋」、あと一つが「錦帯橋」と呼ばれる。中国の人びとは断橋のことなら熟知しているが、錦帯橋についてはよく知らない。

 錦帯橋はその昔涵碧橋と呼ばれ、唐代からすでに存在していた。南宋になると、南宋の著名な画家李嵩が『西湖図』の中でここを描き、「湖山佳処」と呼んだ。その後、湖水の浸蝕と、長年手入れをしなかったことから、白堤は崩れ落ち、この橋もなくなってしまった。明の万暦17年(1589年)、司礼太監孫隆が白堤を修復し、「十錦塘」と改称した。また涵碧橋の旧跡に木をかけて梁とし、修復後は「錦帯橋」と命名した。清の康煕年間には、地元の役人は康煕帝が西湖で舟遊びしたいと言いだしたため、またもや石を切って橋をつくり、石橋となった。清の雍正8年(1730年)になると、浙江省総督の李衛が再度修復を加え、橋は今日見るような形となった。

 面白いことに、日本の山口県岩国市の錦川にも同名の錦帯橋があるが、中国の錦帯橋と違う点は橋がアーチ型木構造ということだ。いまから三百年前、杭州の僧侶独立禅師は清朝を嫌って日本に渡った。その時、彼はふるさと西湖の史料を多数携えて行った。日本人民は昔から有名な西湖の山水風光や名所旧跡に憧れていたので、都合よく独立禅師持参の『西湖志』に記載された明代の錦帯橋の様式を模して、風光明媚な錦川の上に橋を架け、その名も「錦帯橋」と命名した。橋の姿は極めて壮観で、中国のものと異なる点は一方が清朝の石で作られた橋であるのに、もう一方は明代の木製のアーチ型の橋であることだ。1973年、岩国市民は錦帯橋建造三百周年を記念して盛大な慶祝行事を行い、中国の著名な書家趙樸初氏が自ら筆を執り、錦帯橋記念碑落成の碑文を書いた。

 西湖と錦川は互いに遠く離れているが、二つの錦帯橋は姉妹同様一衣帯水の隣どうしの国の土地にそれぞれかかっている。二つの橋は中日両国人民の伝統の長い科学技術と歴史文化の交流の象徴であると同時に両国人民の友情の象徴でもある。



(「人民日報」海外版1990年1月5日)



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